失敗を成功に変えるたった1つの視点~「主体的に生きる」とは

「主体性を持って生きよう」とか「もっと主体的に取り組もう」などとよく言われます。

受け身、待ちの姿勢ではなく、自ら進んで自発的に物事にあたろう、ということですね。

世界的ベストセラーの自己啓発書である『7つの習慣』の、第一の習慣が「主体性を発揮する」というものなのですが、じつは、「自ら進んで自発的に物事に当たる」ことだけが「主体的である」とはいわれていないのです。

私たちは「主体性を発揮する」ことで、たとえ失敗しても、その経験を成功へと変えていくことができます。

その主体性とはどういうことなのか、紹介していきます。

目次

“主体的”と“反応的”の決定的な違いとは?

まず「主体的」の反対の言葉は何でしょうか?

「受動的」、あるいは、いわゆる「お客さん」など思い浮かぶことと思います。

『7つの習慣』のなかでは、それは「反応的」だと言われています。

一見、「おや?」と思われるかもしれません。

「反応的」とはそのときの状況や感情に流されて行動するということです。

具体的に言うと、「言われたからやる」、「やらないと叱られるからやる」などです。

それに対し「主体的」な姿勢とは、反応と行動のあいだに「選択」が入ります。

つまり、どのような状況においても「それは自分の選択によってもたらされたものだ」と捉えるということです。 

しかし、こう聞くと、「すべてが選択できるとは限らないのではないか?」と思うでしょう。

例えば、今晩、彼女と映画を一緒に観に行く約束があるのに、上司から「残業してくれないか」と頼まれたとします。

「そんなの関係ねえ!」と彼女への愛を貫きたいところですが、上司への心証や業務の状況などの現実を見ると、残業するしかないな…、と思うでしょう。

いわゆる、「選択の余地なし」という状況。

しかし、実はこのような考え方こそが「反応的」なのです。

一方で、「言われたから仕方なくやるのではない。あくまでも『残業する』のは“自分の選択”である」と捉えるのが、「主体的」な姿勢です。

主体的なら同じ行動でも結果はまったく違う

「でも、どうせ残業するなら同じじゃないか」と思うかもしれません。

しかし、同じ「残業する」という行動でも、それが反応的か主体的かで、結果は大きく異なるのです。

反応的な場合

反応的であった場合、「上司から言われてやらされている」という気持ちがありますから、残業に対する取り組み方はイヤイヤで、なかなかはかどりません。

また、彼女への対応も、「悪いのは上司だ、文句があるなら上司に言え」といった感じで、関係は悪化、最悪破局を迎えてしまうでしょう。

主体的な場合

それに対し、主体的であった場合、「残業は上司から言われたことではあるが、最終的な選択は自分がしたのだ」という姿勢ですから、自分自身の責任を果たすため、一生懸命に残業に取り組みます。

彼女への対応も「約束を守れなかった責任も自分にある」と思いますから、誠意を持って謝ることができ、関係の悪化は小さくて済むか、あるいは、より信頼を深めることにもなるでしょう。

また、『習慣が10割』(2018年 吉井雅之 著)という本があります。

これは、何をやっても続かずギャンブルに明け暮れていた著者が、自信の体験談を元に、習慣を身につける方法や習慣の素晴らしさを教えている本です。

以下は、その一部の引用です。

仕事を頑張りたくても、世の中が不景気だったり、上司がそりの合わない人だったら、自分ではどうしようもないだろう?

(中略)

『不景気だから仕事がうまく行かない』というのは、自分がそう捉えているだけに過ぎないということです。

同様に、『嫌な上司』はこの世に存在しません。存在するのは、『上司を嫌だと思っている自分』だけ。要するに、すべては自分が決めていることなのです。事実は一つだが、捉え方は100通りある。これが真理です。

『習慣が10割』(2018年 吉井雅之 著)

同じ状況、同じ行動であっても、主体的か反応的か、捉え方の違いで、結果は変わるのですね。

仏教にも説かれている「主体的」な姿勢


仏教に、「自業自得」という言葉があります。

一般によく使われ耳にする言葉ですが、じつは語源は仏教にあります。

では、その意味は?というと、ふつう、よいことにはまず使われていませんね。

例えば、テスト前だというのに少しも勉強せずゲームばっかりしていた子が0点取ってしまった。

そんな子にお母さんが「それ見なさい、自業自得じゃないの」と言います。

また、安くて美味しいからといってカップ麺や菓子パンばかり食べていた人が、体を壊して入院してしまった。

そんな人に友達が「おまえ、そりゃあ自業自得だよ」と言いますね。

このように、何か悪いことがあって、明らかにそれは自分のまいたタネだ、身から出たサビだ、というようなときに使われる言葉です。

しかし、本来の意味はそれだけではありません。

」とは、仏教で「行い」のことです。悪い行いに限らず、善い行いも、すべてこの業の中に入ります。

「得」とは、幸福・不幸のこと。本来は仏教では使わない言葉ですが、わかりやすく言えば「運命」のことです。

ということは、善い結果も、悪い結果もすべて、自分の行いが自分の運命を生み出しているのですよ。

これが本来の「自業自得」の意味であり。仏教では一貫して教えられていることなのです。

自分に目を向け、行動を変える

ですから、テスト前にがんばって勉強して100点取ったなら、それは「自業自得」です。

また、食べ物に気をつけ、体に良いものを食べるようにして、健康をたもっているなら、それもまた「自業自得」です。

ところがどういうわけか、悪いこと限定で使われているのが現実なんですね。

私たちは、何か苦しいことやつらいことがあると、その原因を、周囲の環境や、目の前の相手のせいにしがちです。

しかし、相手や環境は変えることはできません。変えられるのは自分自身の「行い」です。

「選択の余地なし」と捉えて、不平不満を抱くのではなく、選択の余地は大いにあると見る。自らの捉え方によって気持ちも前向きになり、行動も積極的になり、その先の結果はよい方向へと変わる。

このように、反応的な視点から主体的な視点へシフトするように、日々、心がけていきたいですね。

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