最近、ネット上で「親ガチャ」という言葉を目にする機会が増えました。
子どもが親を選ぶことができないことを、ゲームなどでランダムにアイテムがもらえるガチャに例えて言われます。生まれた家庭環境によって、自分は幸せになれないと諦めている人が多いのではないでしょうか。
じつは、一人一人の幸不幸は、その人自身が切り開いてゆけると、仏教を説かれたお釈迦様は説かれました。
今回は、どんな人も幸せな人生になれると説かれたお釈迦様の教えから学びます。
親ガチャとは
親ガチャとは子どもは親を自ら選ぶことはできないことを言われます。ゲームなどでアイテムにアタリハズレがある「ガチャ」に例えているのです。
当たりとは裕福な家庭に生まれたり、親の愛情を充分に受けて育つことを指し、ハズレは家が貧乏で親からの虐待を受けてしまうような家庭に生まれることを指しています。
「親のせいで自分の人生が希望通りにいかない」と『親ガチャ』という言葉を使っている人は、自分はハズレだと感じている人が多いのではないでしょうか。
裕福な家庭に育っている人をうらやましがったりし、自分は惨めだと思っている人が使うことが多いです。
人生を大きく左右する家庭環境や境遇などは運任せだということを指しています。顔、身長、体型、経済状況、頭の良し悪し、育つ環境など当てはまる内容は様々です。
これは決して親だけではなく、派生して嫌な上司に対して「上司ガチャ」「部下ガチャ」という言葉もあります。
上司に恵まれないとグチる人、部下が仕事をしないと腹を立てる人、世に不条理はつきもので、不幸な境遇をうらみ、のろい、親や上司などのせいにする気持ちはわかります。
それだけ人生は思い通りにはいかず、なぜ私がこんな目にあわねばならないのか・・・
あの人はいいな、と幸せそうにしている人を見ると羨む気持ちになり、不平不満が出てくるのかもしれません。「○○ガチャ」とは、そんな苦しみが裏側に垣間見えるに思います。
運命は不可解なもの
この理不尽さをどう納得したらよいでしょうか?
「親ガチャにハズレたよ」とグチって、友達に慰めてもらうしかないか、どうしようもないことと、あきらめてしまうときに使う言葉になりつつあります。
- もっと裕福な家庭に生まれたら良かった。
- もっと子供のことを理解してくれる親の元に生まれたらよかった
- あの人はいいな、と自分に無いものがある人を持っている人をうらやましがる
では裕福な家庭に生まれた人はみんな幸せか?と尋ねれば、それぞれに不満や苦しみを抱えているのです。
経済的に恵まれても人間関係など思うようにならない世の中です。だからこそ、「○○ガチャにハズレた」と嘆く人も現れてくるのでしょう。
運命は切り開いてゆける
では、不遇な運命はどうにもならないと諦めるしかないのでしょうか?
仏教では、自分の運命は自分の種まきによって切り開くことができると教えられています。
これを『自業自得』といいます。
「自業自得」と聞くと、ろくに勉強もせずゲームをして遊んでいて大学入試に不合格だった人に対して「それは自業自得だよ」とか、暴飲暴食がたたって病気になってしまった人に対して「つらいけど、それは自業自得だ」というように、悪い運命のときにだけ使われています。
しかし仏教では、本当は良い運命も悪い運命もすべて自業自得だと教えられます。
たとえば、日々の鍛錬の積み重ねでオリンピックで金メダルを取ったことも、一生懸命勉強して大学に合格したことも『自業自得』なのです。
「業(ごう)」とは私たちの「行ない」のことで、自分が受ける運命は自分の行為によって生み出されるので自業自得と説かれます。
たとえ今つらい状況にあったとしても、未来はこれからの行ないによって切り開いてゆくことができるのです。
どんな人もアタリの人生になれる
仏教を説かれたお釈迦様は、どんな人も「生まれてきてよかった」と心から喜べる人生になれるのだと教えられています。無上の幸せになれる人生ですから、人命はとても重く、尊いのだと説かれます。
そんな幸せな人生を生きる、「生まれきてよかった、この幸せになるためのこれまでの人生だったのか」という喜びを、経典では次のように言われています。
人身受け難し、今すでに受く。(お釈迦様)
(生まれがたい人間に生まれることができて良かった、この幸せになるための人生だったのか…!)
日々のなかで「どうして生まれてきたんだろう」「生まれてこなければ、こんなに苦しまなくてもよかったのに…」と生まれた喜びが感じられないのは、生きることの幸せが分からないからです。
不遇な運命を誰かのせいにしてしまう私たちに、どんな人でも幸せになれることを教えられているのが、仏教を説かれたお釈迦様です。